畑谷城を落とし、勢いに乗る直江兼続は、14日に菅沢山に布陣、長谷堂城を包囲しました。
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長谷堂城は山形城から南西約8キロに位置し、山形城防衛において最も重要な支城です。

最上義光は、長谷堂城と山形城に兵力を集中させ、最上氏側の防衛拠点とし、上杉軍と対峙しました。長谷堂城を落とせば、上杉軍は山形城攻略に集中することが可能となります。最上氏にとって、長谷堂城は最後の防衛線です。

最上義光 伊達政宗に援軍を依頼する

9月15日、緊急事態となった最上義光は、嫡男・義康を北目城(仙台市太白区)に在城している甥・伊達政宗(母・義姫は義光の妹)に送り、援軍を依頼します。

16日、政宗は、叔父・伊達(留守)政景を総大将として、最上氏に援軍を派遣することを決定します。19日、政宗の母であり、この当時は山形に在住していた義姫も、政宗に援軍の早期派遣を依頼する書状を送っています。

直江兼続 長谷堂城を攻撃する

長谷堂城は、規模は小さいものの、天然の要害とも言える山城です。小城には不似合いな防除設備もあり、少数の兵で籠城するのに適した城でした。

城将は最上氏の重臣・志村伊豆守光安。光安は義光の腹心の一人であり、兵千名と共に籠城しました。義光は、鮭延秀綱に旗本100騎と鉄砲隊200人を付け、援軍として長谷堂城に送ります。
直江兼続が率いるのは、上杉軍2万人。攻城戦には十分な兵力であり、上杉軍は謙信以来の精鋭部隊として知られています。

9月15日、長谷堂城の戦いの火蓋が切って落とされました。奇しくもこの日は、関ヶ原の戦いと同日であり、短時間の内に東軍の勝利が確定しています。
関ヶ原の戦いはこちら → 関ヶ原の戦い

兵力にまさる兼続は、一気に総攻撃をかけましたが、志村光安は見事な戦巧者ぶりを発揮します。上杉軍を十分に引きつけては、鉄砲隊で一斉射撃を加え、上杉軍を撃退します。

9月16日、光安率いる決死隊が、上杉側の春日元忠軍に夜襲を仕掛けます。上杉軍は、同士討ちを起こすほどの大混乱に陥りました。志村光安は兼続のいる本陣近くまで攻め寄って、上杉軍を討ち取り、戦果を挙げています。

長谷堂城跡.jpg

9月17日、兼続は、春日元忠に再度城を攻撃させます。しかし、城の周りは深田になっており、人馬共に足を取られて、動きがとれません。最上軍は鉄砲隊で一斉射撃を浴びせ、上杉軍を追い散らします。

上山城 里見民部の抗戦

同日、直江兼続とは別行動をした篠井康信、横田旨俊率いる上杉軍が、羽州街道の上山城を囲みます。
城将・里見民部は、500の兵とともに籠城。里見民部と城兵は、500の寡兵ながら善戦します。

民部は、思い切った奇襲作戦に出ました。民部と城兵が城門から打って出たところ、上杉軍は一気に城門めがけて襲いかかります。城門付近で、両軍は激戦となりますが、上杉軍の背後から、最上軍が襲撃します。

民部は、最上義光が援軍として送った草刈志摩と別動隊を、あらかじめ城外で待ち伏せさせていたのです。

背後を襲われた上杉軍は、瞬く間に大混乱となり、最上軍は一気に上杉軍に攻めかかります。上杉軍は、多くの将兵の多くが討ち取られました。一方、最上軍も、追撃中の草刈志摩が鉄砲に撃たれ、討ち死しています。

鮭延秀綱 上杉軍を翻弄する

城攻めに苦心した兼続は、長谷堂城付近で刈田を行って、城兵を挑発します。城兵の中には、誘いに乗って、城外に出ようとする者も出はじめます。この動きを押さえるため、100騎を率いた鮭延秀綱は、城外に打って出ます。

秀綱は、刈田を行っている足軽を追い払い、上杉陣を切り崩します。最上軍が、深入りするのを抑えながら、素早く撤退する秀綱。

上杉軍は秀綱軍を追撃、城を攻撃しようとしますが、志村光安が鉄砲足軽300を配置し、上杉軍を迎え撃ったため、やむなく撤退しました。

鮭述秀綱の戦いぶりを見た兼続は、「今日鮭延が武勇、信玄・謙信の家にも覚えなし」と、秀綱に後日褒美を贈ったと言われています。

9月21日、伊達政宗が援軍として送った留守政景は兵3千を率い、笹谷峠を越えて山形城の東方(小白川)に着陣しました。伊達軍は山形城の最上義光と協議後、24日には直江兼続本陣から約2km北東の沼木に布陣します。
25日、最上義光も山形城を出陣し、稲荷塚に布陣しました。

上杉・最上・伊達軍が出揃いましたが、戦況は膠着します。
状況を打開するため、29日、直江兼続は長谷堂城に総攻撃をかけます。

上杉軍は猛攻を加えますが、志村光安らの最上軍は死に物狂いで奮戦、激戦の末に上杉軍の武将・上泉主水泰綱(剣術新陰流の祖であり、剣豪・上泉信綱の嫡孫とされる)を討ち取ります。

直江兼続 長谷堂城から撤退する

長谷堂城総攻撃の同日・29日に、上杉景勝の元に関が原の戦いで、西軍が敗れたという報告が入ります。米沢城の景勝は、直ちに直江兼続に長谷堂城から撤退するよう命じます。
30日、最上義光の元にも、関が原の戦いで、東軍が勝利したという知らせが届きます。

10月1日、直江兼続は撤退を開始、最上義光は最上・伊達連合軍を率い、上杉軍を猛追撃します。陣頭指揮をする最上義光の兜に銃弾が当たるという大激戦となり、両軍ともに多くの死傷者を出しました。
記録により、双方の死傷者に差はありますが、上杉軍・最上軍双方で2千人以上の戦死者が出た模様です。

直江兼続は畑谷城で軍をまとめ、3日、荒砥に退却します。前田慶次(利益)と水原親憲が殿を努め、兼続は鉄砲隊で最上軍の追撃を振り切り、4日に米沢城に帰還しています。

最上義光は、撤退戦での兼続の見事な戦いぶりに、「誠に景虎(上杉謙信)の武勇の強み、今に残りたり。」と賞賛を惜しみませんでした。

反撃する最上軍は、10月1日には寒河江・白岩・左沢を回復しています。庄内方面から進軍しに上杉軍の中には、情報が入らず、撤退が遅れ、敵地に取り残された将兵もいました。

谷地城を占領していた上杉軍の下秀久は、11日間籠城した後、志村光安の説得により最上氏に降伏しました。
その後、下秀久は、庄内地方に進攻する先鋒として尾浦城を攻略します。翌慶長6年(1601年)3月東禅寺城(酒田城)を攻略にも戦功をあげた下秀久は、尾浦(大山)城主(1万2千石)となりました。

長谷堂城を守った志村光安は、戦功を賞されて慶長6年(1601)、酒田城主(3万石)に任じらます。光安は、酒田の町づくりに貢献したと言われています。